「包丁」の語源をご存知でしょうか?

荘子の中に「包丁」の語源となったエピソードがあります。

ある時、庖丁(庖は料理人の意味。丁は名前とも使用人の意味だとも)が文恵君(魏の恵王)の求めにより牛を解体した。その刀捌きは実に見事で、巨大な牛が見る見るうちに解体されていく。牛刀を振るう姿は淀みなくリズミカルで、あたかも楽器を奏でるようであった。

感嘆した文恵君が
「ああ、技も磨けばこれ程の境地に至るのか!」

と言うと、庖丁は牛刀を置き、
「恐れながら申し上げます。私の好むものは道であって、技ではありません。道は技よりも数段進んだ物であります。数十年前に初めて牛を解体した時、私は巨大な牛の姿に、何処から手をつけていい物か悩みました。三年後には、牛の姿は目に入らず、悩むことはなくなりました。そして今、私は目で牛を見るのではなく、意識もなく、ただ自然に手が動きます。牛本来の成り立ちに従って刀を振るうので、私の刀は十九年目ですが、この通り砥石を当てたばかりのようです。それは刃先には厚みがなく、牛の体には隙間があるからです。しかしながら、骨と筋の絡んだ所を切る時は、私も難しく感じます。そんな時、私は自らの妄動を戒めます。すると視覚が止まり、行動は遅く、刀の動きもとてつもなく遅くなります。そしてどさり、と肉の落ちる音を聞いて、私は我に返ります。それから周囲を見回し、満足して刀を納めるのです。」

これを聞き終えた文恵君曰く、
「素晴らしい。私は庖丁の話を聞いて、養生の道を思い知った」

武道の達人とはまさにこの通りです。
目で見るのではなく、意識もなく、ただ勝手に相手を感知、反応し、
自然と手、身体が動く、そして自然の流れ(理)に沿って、行うので刃こぼれひとつない。

あらゆる達人とは
まさにこの通りです。

人生の達人も、まさにこの通りです。
目で世界や物事を見るのではなく、意識もなく、
世界と、周りと調和し、自然の流れで生きる。

自然の流れに沿って生きるので、
苦しみも悩みもなく、ただ自由に行き、流れに沿って往生することができる。

そうありたいと考えています。